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©AndrejGrilc過酷な戦いを経て到達した境地イーヴォ・ポゴレリッチピアノ・リサイタルイーヴォ・ポゴレリッチの芸術を享受し、理解するためり上げたものだった。そして、彼女が1990年代半ばに亡には、我々は自分が持っている作品のイメージを、一度くなった後、ポゴレリッチは糸の切れた凧のように迷走し白紙にしなければならない。「舟歌のテンポはこんな感た。それまで演奏に枠組みを与えてくれた人が、忽然とじ」といった姿勢でのぞむと、彼がそれに応えてくれない消えてしまったからである。ことにフラストレーションを覚えるだろう。「シューベルト今思えば、2000年からの約10年間は、彼が他人ではなはウィーン風でなければ」と前提を作れば、失望するのはく、自分自身の考えで音楽を生み出すための過酷な戦い目に見えている。既存のものと比べてはならず、最初からであった。自らの知性と感性のみで作曲家に向き合い、ピそうしないことが重要である。アノ演奏の本質へと迫る戦いは、その途上において、多くというのは彼の演奏は、既成の解釈ではなく、彼自身のの聴き手を当惑させただろう。しかし、60歳を超えた今内面から生まれてきたものだからである。などと言うと、当の彼は、まぎれもなくそこに到達している。彼のコンサートたり前のことに感じられるかもしれない。しかし、自分だで我々が担う役割は、「普通と違う」ことに不満を募らせけでものを考えることは、思いのほか難しい。我々はしばることではない。まっさらな耳で音に耳を傾け、ポゴレリッしば、既存の考え方や他人の意見が、自分のものであるチの思考を共に辿ることである。それに辛抱強く付き合い、かのように感じている。演奏家も、先人の演奏を(それが一音一音を問い直した時、彼が全神経を費やして譜面かホロヴィッツであるか、リヒテルであるかにかかわらず)、ら抉り出したものが、我々に現前してくるに違いない。無意識にコピーし、自己の解釈として弾いている人が多い。ポゴレリッチは、そうすることを頑なに拒否している。彼の芸術、少なくとも過去10年の演奏は、その信念のもとに打ち立てられていると言っても過言ではないだろう。そしてそれは、それ以前の彼が、逆にどっぷりと他人の思考に依存して弾いていたからなのだ。当時彼の解釈は、事実上、彼の師であり妻だったアリザ・ケゼラーゼが作2城所孝吉(音楽評論)2023.1/13(金)19:00¥15,00011/12(土)発売ショパン:幻想ポロネーズ変イ長調Op.61幻想曲ヘ短調Op.49舟歌嬰ヘ長調Op.60シューベルト:楽興の時D780